静岡県裾野市深良の日本伝講道館柔道 清流館 - 道場の現在までの歩み

近代柔道 2005年4月号、道場紀行 第15回「裾野は広く、頂は高く。」より。

学校教育と柔道教育に人生をかけてきた父(哲夫)、就任時24歳と世界で一番若い館長となった誠実で破天荒な2代目館長(司)の道場にかける歴史です。
そして、そこには長年共に道場を支え、子供達を指導し続けてきた、現理事の(大場洋行)と(深谷利彦)大きな力と、地元の地域の温かい応援があった。

継続し発展させる厳しさに、立ち向かい乗り越え子供達を指導してきた歴史が、一つの小さな町にあった。
どうぞお読み下さい。

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裾野は広く、頂は高く。

西の富士山、東の箱根の山々のふもとを横に細長くつなぐように広がる裾野市。快晴ならば、富士の美しい稜線をどこからでも臨むことができるという。日本一の霊峰に見守られるこの町に.親子二代で営まれる個人道場がある。学校教育に馴染めない子も受け入れ.育成してきた町の道場に.地域住民が寄せる期待と信頼は厚い。

取材前日、関東甲信越地方では雪が降り、東京では3月として7年ぶりの積雪を記録した。その影響だろうか。晴れていれば正面には雄大な富士、東には天下の剣・箱根の山という"これぞ日本の風景"といった景色が臨めるはずだが、この日、霊峰は残念ながら厚い雲の向こう隠れてしまっていた。

この地に清流館山縣道場ができて今年で21年になる。それ以前ここには道場がなく、開設者・山縣哲夫は中学時代、片道50分かけて町道場まで通わねばならなかったという。好きな柔道のためとはいえ、明かりの乏しい夜道を約1時間歩くことは心身ともにきつかった。それが「いつの日か自分で道場をやりたい」という夢を抱くようにな る最初のきっかけだ。やがて中学校の教師となり、忙しい毎日を送るようになったが、道場開設という思いは変わらなかった。それどころかむしろ、教師という職業が思いを強くさせたのかもしれない。柔道は、教員の本分である人づくりにつながるからだ。

35歳になったとき、ついに夢は現実となる。思いの詰まった道場は"清い汗を流した者のみが人としての成長を続けられる"という意味を込めて、『清流館』と名付けられた。

「町道場を始めるということは、公立の教員として前例のないことだったので、よく『二足のわらじを履いて大丈夫か?』と心配されました。もちろん、公立の教員ですから、ボランティアでやらなければならない。そのうえ仕事も忙しかったので、それはもう大変でしたよ。それでも、柔道を地域の人たちに広く伝えたかったし、柔道の持つ良さである、精力善用、自他共栄の精神を日々の稽古を通じて多くの人に伝えたかったんです」

宣伝は一切せず、近所の子供たち4、5人でスタートした。仕事があるから練習は今も昔も週3回、夜の7時から 9時半まで。「柔道が強くなることは人として社会人として、健全な精神を持ち、生涯、人の道を学び続けること」という理念のもとで指導した。教育者が営んでいることも手伝ってか、次第に地元の人々の信頼を得て、生徒はロコミで増えていった。この21年間でここから巣立った子供は200名以上を数えるまでになった。そのなかには注意欠陥多動性障害、学習障害といった学校教育では十分な対応を望めない障害を持った子供たちも含まれている。「清流館なら何とかしてくれるかもしれないちるい」と、一縷の望みを持った親たちが頼ってくるからだ。こうした子供たちにも分け隔てなく指導を行う。50畳ほどの小さな道場だが、指導者が分担して目を配り、徹底した補助・補強運動を行うことで、これまでほとんどケガ人を出していない。

こうした山縣の活動に刺激を受け、徐々に個人で道場を営む人も近隣に増えてきた。当初の目的であった地元に柔道を普及する活動は確実に実を結んでいる。しかし、山縣は言う。「うちの道場には強くなりたいと思っ ている子もいるけど、障害を抱えた子もいるでしょう。しかも、指導者はみんな仕事と両立させながらやっているので、指導には限界があるんです。だから、素質を持った子が現れても、県大会で上位に食い込むことが精一杯。本音を言えば、やるからには強くしたいという思いもあるんですよ」

教育者であり柔道の指導者でもある山縣だからこそのジレンマだった。

そんな道場に昨年、変化が訪れる。中学時代から実家を離れ、競技柔道に揉まれてきた三男・司が13年ぶりに帰ってきたのだ。これを機に館長の座を息子に譲ることを決めた。そこには「自分のこれまでの環境を生かして、強い選手を育てるような要素も取り入れられるのではないだろうか」という期待もあった。司は最初、道場を継ぐことにはためらいがあったと言う。

「道場を継ぐと好きなことができないじゃないですか。兄も2年前から地元で接骨院を開いていましたので、兄が継ぐのかなとも考えていましたし‥‥。自分が館長になることは兄弟で話し合ったわけでも、父と話し合ったわけでもないんです。でも結局、自然な流れで、自分がやることになりました。やっぱり子供に教えたいという気持ちがあったんですよね」

こうして昨年、24歳という若き館長が誕生した。とはいえ、新たな指導方針を打ち出したわけではない。ただ自らが競技柔道の出身であることから、自然に指導はより厳しくなった。

学校教育に馴染めない子供たちも受け入れる。町道場の役割を守り続けて

「小さい頃が一番身につくときだから」と幼稚園児にだって200本の打ち込みを行わせる。基礎も乱取りも2時間なら2時間、徹底的にやる。だからどんな小さな子も自分より大きなお兄さん、お姉さんの胸を借りて、速くて正確な打ち込みを見せる。その姿はなんとも微笑ましく、そして圧巻だ。現在の入門者は45名。これまでのところ、新館長になってからやめた子は一人もいない。

その一方で、保護者のなかには厳しい指導に戸惑いの声もあがる。「柔道を習うのではなく、清流館で学ばせるために通わせているのに」と、これまでの教育柔道を期待する親もいるからだ。そうした人たちとは、分かり合えるまで話し合った。こうした一方通行ではないコミュニケーションの図り方が、司の指導の特長である。始めた当初、親と子の気持ちを知ろうと、司はすべての子供たちの親にアンケートをとった。試合の結果にこだわるかどうか。親が望む目標、子供が望む目標。練習後に子供が発する言動、親がよく子供に対して言う言葉は何か。など、その質問は多岐に渡る。

父の山縣が掲げた「大きな声であいさつをする」、「掃除は汗が出るほどていねいに」というこれまでの道場心得 に「悩みや不安なこと、嬉しいことは素直に声を出して言う」「物事はすべてプラスに考える」という文章を加え たのも司だ。一人ひとりの意見をどれだけ活かせるか。明確な指導方針はなくとも、そのことについて司はこの一年問いつも考え続けてきた。今春には、司は専門学校に通い、臨床心理士の資格を取るという。これも、なにより指導に活かせると考えたからだ。「親子で指導法なと語り合ったことはないんですよ」と父は言ったが、やはり、この親にしてこの子あり。根底には同じ気持ちが流れている。

真摯な姿勢は子供に伝わる。子供たちは、柔道が、司先生が大好きだ。志村研悟(小6)は「先生に怒られたことはあるけど、それは僕がふざけたから。この間、『強くなったな』ってほめられてうれしかった」と言い、福井優妃(小4)は「練習は厳しいけど、柔道大好き。特に好きなのはいろんな技ができるから赤帯(乱取りのこと)かな。得意技は背負い投げ。近頃バランスが良くなってきたよ」と元気に語った。

こうして新米館長の一年は瞬く間に過ぎた。この春にはこれまで市の講師として勤めていた中学を退職し、民間企業に就職する予定だという。父は公立の教員で大会遠征もままならなかった。会社勤めならば、少しは時間のやり繰りができる。いよいよ競技柔道に本格的に取り組むのだろうか?そう思って、これからの目標を尋ねてみると、司からはっきりした答えは得られなかった。その理由は取材を終えた2日後に送られてきたメールで判明する。「今日あった裾野市主催の招待試合の結果を報告したくメールしました。団体戦、個人戦と幼稚園児から一般まで、17階級あるなかで、14階級で清流舘の生徒が優勝し、閉会式が清流舘で埋まりました。(中略)この一年の行いが良い結果に出て内心ホッとできました。取材の日はまだ試合前で結果が出ていなかったので、はっきり話すことはできませんでしたが、精神と勝負、このどちらにもこだわって突き進む自信となりました。私のしなければいけない目標が見えた気がします」

これまでずっと、霊峰・富士の裾野を見つめてきた。開設して21年、そろそろ、その日本一の頂を目指してもいい頃だ。土地にしっかりと根付き、子供たちをその懐に抱いてきた清流館。その礎を大切にしながら、新たな方向へと静かに動き始めた。

(文・永田千恵、文中敬称略)